

関東もいよいよ梅雨入りしたようですね。この時期になると、外での散歩も思うようにできなくなってしまうのが少し残念です。雨が降ると外に出るのも億劫になりがちですが、それだけでなく、湿度が高くなり蒸し暑さが増すのもツラいところです。実際、今日もほんの小一時間ほど散歩しただけで、汗が止まらなくなるほど暑く感じました。これからの季節は、こまめな水分補給や日陰での休憩が欠かせませんね。雨の合間を見つけて、少しでも快適に外の空気を楽しめるといいなと思います。
もう紫陽花の季節ですよ、これ。6月ですよ、もうすぐ今年も折り返し地点ですよ、これ。早すぎぃ!って毎年というか毎月言ってますね。
晴天の紫陽花はちょっと痛々しい。
写真を撮るときにいつも気になっちゃうんだけど、たとえばこういう花壇の写真の場合、デザインしたのは花を植えた人だからそれを写真に撮って満足するのって盗作感みたいなのがずっとあります。花壇じゃなければいいかっていう話でもなくて、たとえばタンポポみたいな自生している花なんかでも綺麗なのは花だよね。みたいな矛盾?矛盾でもないか。無力感?なんだこれは。
・・・っていう話は前もしたっけ?
この写真、もしかしたら「ん?何が変わったの?」と思うかもしれませんが、実は秘密兵器を投入しました!その名も「ブラックミストフィルタ」!なんだかカッコいい名前ですよね?レンズに装着すると、光がふわっと拡散して、まるで映画のワンシーンみたいな雰囲気になるんです。
ええ、そうなんです…たとえこの写真ではその効果が「どこ?」って感じでも、私の心の中ではすでにハリウッド級の映像美が広がっているのです!信じる者は救われる、ブラックミストフィルタの魔法をお試しあれ!
【原文】この写真では効果が分かりにくいかもしれませんが、ブラックミストフィルタなるものを購入しレンズに装着してみました。光が拡散し映画のような描写になるとのことです。
年齢と好みの画角には相関関係があるという説をご存知でしょうか。写真家の高梨豊氏は、「年齢画角説」を提唱しています。これは、二十代は21ミリや28ミリといった広角レンズを好み、三十代は35ミリ、五十代は50ミリと、年齢を重ねるにつれて好む画角が変化するというものです。
僕はこれまでずっと35ミリが一番好きな画角だったんだけど、久しぶりに50ミリをつけてみたら・・好きとかそれ以前に使いやすい!マニュアルフォーカスしやすい!つまり老眼に優しい。。
そういうことか・・と思いました。
以上です。
似てないよね。全然。マールボロじゃ写真は撮れないしライカに火をつけても吸えません。
僕は以前そこそこなスモーカーでしたが今は吸っていません。いわゆる禁煙成功者です。先日仕事関係の飲み会で煙草のやめ方みたいな話になって禁煙方法を聞かれたんで思い出しました。僕の場合は毎日ポケットに煙草とジッポーを入れるだけ入れて吸わない。喫煙所には行くけど吸わない。みたいな生活を二ヶ月くらい続けました。吸えないと思うと吸いたくなっちゃうもんで、逆にいつでも吸えるぞ!という状況を作っていたわけです。そしたらすんなりいけました。
ここにあなたがいないのが寂しいのじゃなくて、ここにあなたがいないと思うことが寂しい
的な禁煙方法です。それが一番大事。
んで何が言いたかというと、カメラも持って出かけると撮るもんないなぁ、なんて思うんだけど持たずに出ちゃうと、撮るものがいっぱいある感じがしちゃうの。なんていう現象なんだろこれ。
ところで先述の “それが大事” って曲の歌詞なんだけどさ、負けないこと・投げ出さないこと・逃げ出さないこと・信じ抜くこと のうち、結局どれが一番大事なの?
立ち枯れの木。確か数年前に枯れちゃった木。それでも上部の窪みに溜まった水やら何かを鳥がつつきに来たり、何かの役に立ってる。
五十四文字に収めてみようと思ったけど難しいな。。
本文と何の関係ない写真。不思議な写真が撮れたので。
フォースクエアってあったじゃないですか。アイフォーンが日本でも発売されたくらいから一気に流行ったサービス。何度もその店とかでチェックインするとメイヤーになれるやつ。流行りに乗って僕も始めたんだけど、自分の行動履歴を人に公開するのってどうなの?と思い非公開に。それでもこっそり続けていたんです。カレンダーと同期ができて自分が過去にどこに行ってたいたかがわかるのが便利なもんで。そしてそれから数年後、フォースクエアはチェックイン機能だけ分離したスウォームというアプリになり間も無くカレンダーとの同期する機能が停止。それでも続けていたんです。別のサービス経由でカレンダー同期もさせて。個人的な印象だとその後みなさんフェイスブックで同様のことをされていたように思いますが、最近だとそれも見かけなくなりましたね。これまた、だからなんだって話なんですが、僕は続けてますよ。というご報告。
ちなみに5年前の今日、ぼくは東久留米市のダイソーにいたようです。だからなんだって話なんですが。
良い俳句って最低限ルールに則った上で余白のある作品だとか。余白っていうのはつまり読んだ(詠んだじゃなく)側が想像できる余地のようなものですかね。有名な松尾芭蕉の「古池や〜」の句も古い池にカエルが飛び込んでポチャっと音がした。ってことが言いたいわけじゃなくて、その情報から色んなことが想像できるでしょ?ってことだと思います。俳句に限らず歌の歌詞なんかそうだよね。北京・ベルリン・ダブリン・リベリア・イラン・アフガン・・・なんてもうアジア関係なくなってきているけど、アジアの純真ってタイトルだし危険な紛争地帯とアジアの関係を云々考えちゃったり。作った方は何も考えてなくて音で選んだだけだとしても。・・例えが古い。 つまり何が言いたいかというと、今日の写真も良い写真でしょうと。
この招き猫は福を招けたのか?なぜシャッターが半開きなんだろう。営業してないの?値段はピンボケで見えないけど安いのか高いのか。など色々想像できるでしょうと。ほら何でもない写真が良い写真に見えてきたでしょう。
これがメンタリズムです。